日本時間の今週月曜に開催された第59回グラミー賞。この日の主役はアデルでした。「Hello」で最優秀レコード賞および最優秀楽曲賞、『25』で最優秀アルバム賞と主要3部門を獲得。一方、「Formation」および『Lemonade』でアデルと共にノミネートされていたビヨンセは今回、主要部門を逃す形となりました。
全部門の受賞者およびノミネートは下記に。
自分は今回、最優秀新人賞を除く主要部門をビヨンセが占めると、半ば希望込みで予想したのですが…結果は最優秀新人賞のチャンス・ザ・ラッパーを的中させたのみ。
この予想を載せた後、アメリカの主要メディアでは、”who SHOULD win?"(誰が獲るべきか)、そして"who WILL win?"(誰が獲るだろうか)という観点で主要部門の予想が行われていた模様。たとえば米ビルボードではこんなふうに。
つまり、"WILL"はグラミー賞投票者側に立った見方、"SHOULD"はメディア側のいわば願望という側面が強いものと思われます。他のメディアでも、"SHOULD"にはビヨンセが、”WILL”にはアデルが…というのが目立った印象があり、その点においては順当だったと言えるかもしれません。
さて、私的予想をアップした2日後、グラミー賞をボイコットしたフランク・オーシャンおよびカニエ・ウエスト等への苦言を呈させていただきました。
このエントリーで引用したMTVの記事にもあるように、フランクが自身の作品をノミネートさせなかった理由はグラミー賞の古臭さや黒人蔑視な側面からなる保守性の高さを非難することであり、このフランクの意志を代弁するかのように、グラミー賞を振り返った米ローリングストーン誌は賞に対し厳しい批判を繰り広げています。この記事を紹介した渡辺志保さんのツイートを勝手ながら紹介させていただきます(問題があれば削除させていただきます)。
米ローリング・ストーン誌による「今年のグラミーで、アデルがビヨンセに勝った5つの理由」。グラミー委員会が白人のオッサンばかりだから、アデルの方がPOPだから、アデルの方が昔ながらのやり方でアルバムを発売したから…etc https://t.co/KtNJjB6y1r
— shiho watanabe (@shihoe) 2017年2月14日
でも、この記事が裏付けている?フランクの理論(そしてその理由は今回の結果でより強まったように捉えられてもおかしくないのですが)に敢えて反論したいのですが、仮に投票者が白人男性が多い且つ年配者として、本当に古臭いし保守的だったのでしょうか?
その理由は主にふたつ。
① グラミー賞の選考基準は保守的どころではなく極めて柔軟である
私的予想でも触れましたが、今回最優秀新人賞を受賞したチャンス・ザ・ラッパーは当初同賞の資格がありませんでした。それを彼の活躍に即する形でポリシーを変更するに至っています。本当の保守というのは、たとえば日本において未だに多くのメディアが紹介する音楽チャートが、時代の変化に伴う音楽の聴かれ方の多様性を無視したオリコンチャート…というようなものであり(極端なたとえかもですが)、日本のそれ以上にはるかに柔軟性を持ち合わせていると思うのです。
② チャートを制した者がきちんと受賞している
最優秀新人賞を除く3部門において、米ビルボードチャートでの成績はいずれもビヨンセよりアデルが上。この流れは昨年のグラミー賞におけるテイラー・スウィフト『1989』の最優秀アルバム賞受賞(ケンドリック・ラマー『To Pimp A Butterfly』が同賞を逃す)のみならず、最優秀レコード賞のマーク・ロンソン feat. ブルーノ・マーズ「Uptown Funk」ならびに最優秀楽曲賞のエド・シーラン「Thinking Out Loud」も同様で、2016年グラミー賞の主要部門のうち3つにおいて、2015年度の米ビルボードにおいて最上位に来た作品が選ばれていますし、最優秀新人賞を獲得したメーガン・トレイナーについても他のノミネート歌手よりチャート成績が上回っていました。グラミー賞の対象作品のリリース期間と米ビルボードチャートの集計期間に2ヶ月のタイムラグはありますし、また今年のグラミー賞においては最優秀レコード賞および最優秀楽曲賞において「Hello」以上に高位置にランクインした曲があるゆえ、チャートを制した者が…と100%断言出来かねる部分はありますがそれでも、チャートにおいて”アデル>ビヨンセ”の図式は変わりませんし、それどころか「Formation」は米ビルボードソングスチャートでトップ100にも入っていないというのが現実です。
この2つの理由、柔軟性および特にこの2年におけるヒットした作品が順当に選ばれている事実を踏まえれば、グラミー賞は市井に寄せていると思うのですが如何でしょう。フランク・オーシャンが指摘する古臭い体質や保守性が根強くあるならば、この2つの動きは出現しなかったはずで、チャンス・ザ・ラッパーの受賞すらなかったでしょう。
(なお今年の最優秀新人賞においては、シングルヒットを大量輩出したザ・チェインスモーカーズが選ばれませんでしたが、個人的には彼らが未だフルアルバムを出さないゆえ彼らの音楽性の輪郭が示されなかったんじゃないかと推測。あくまでフルアルバムを出したという前提で、そこからシングルヒットを量産していたならば、チャンス・ザ・ラッパーではなくザ・チェインスモーカーズが受賞していた可能性はあると考えます。)
さて、アデルはグラミー賞最後に発表された最優秀アルバム賞受賞の壇上で、ビヨンセ『Lemonade』は”記念碑だ(So monumental)”と語っていたのが印象的でしたが、後に祝賀会にて『彼女が年間最優秀アルバムを取るには、他に何をしなきゃいけないの?って感じ』とコメントしたそうです。『』内は下記記事より。
アデルの質問に対し、何様と言われるのを覚悟で答えるならば、間違いなく言えるのは【収録曲がソングスチャートで大ヒットすること】。アデル『25』には「Hello」という特大ヒットがありましたが、ビヨンセ『Lemonade』には該当曲がありませんでした。もっといえば、記事でも触れられている昨年のグラミー賞においても、最優秀アルバム賞の受賞を逃したケンドリック・ラマー『To Pimp A Butterfly』からは2015年度の米ビルボード、年間ソングスチャートにおいて1曲もトップ100にランクインしておらず、一方のテイラー・スウィフト『1989』からは5曲もトップ100入り(しかもそのうち1曲はシングル化に当たりケンドリック・ラマーを客演に招いています)。5曲というのは強烈だとしても、せめて今年のアデルの「Hello」のような大ヒットをビヨンセが1曲だけでも輩出出来ていたならば、チャートを重視する(ようになった)グラミー賞投票者の心象や投票行動は変わっていたのではないかと思うのです。
これは『Lemonade』でも、そしてフランク・オーシャン『blonde』やカニエ・ウエスト『The Life Of Pablo』でも言えることですが、芸術的とも言えるそれらアルバムの質の高さは割と多くの方が抱いているはず。ただ芸術的と言われる作品はとっつきにくさを伴っているため、ソングスチャートを賑わせる曲があってはじめてより多くの聴き手が手に取ってくれる(聴くきっかけを抱ける)のではないかと。最近ではサプライズリリースが当たり前にはなりましたが、アルバム同様に先行曲をきちんと”仕掛ける”ことでソングスチャートで大ヒットする曲があれば、よりアルバムもヒットして多くの方に届いたでしょうし、当然ながら選考委員の心にも引っかかったはず。逆に言えば、今後どんなに黒人や女性の差別を憂う等の社会情勢を反映した傑作アルバムが誕生しようとも、ソングスチャートを賑わせないとこの状況は続くでしょう。
いやいや俺は自分なりのやり方で売っていく、と仮にフランクもカニエも言うならば、先に触れたようにグラミー賞は市井に寄せてきているわけですから、言い換えれば市井を敵に回すことにもなるのでは?と。厳しい物言いかもしれませんが、ここはひとつ、次作以降の”戦略”を練り直してほしいと思います。これはソングスチャートでのヒットを作るのみならず、CDリリースをしないという戦略を廃止することも同様です(一方でチャンス・ザ・ラッパーはCDどころか有償リリースしていませんが、これも先述したように最優秀新人賞の選考基準は若干異なるように思いますので、チャンスについての今後の戦略にも言えるでしょう)。ネット環境が不十分な市井にとっては『blonde』も『The Life Of Pablo』も聴くことが出来ず、選考委員の耳にも届きにくいはずで、グラミー賞に本気で変わってほしいしそのために(まずは)自分が認められたいと思うなら、グラミー賞と同様かそれ以上にまずは自身こそが、こだわり”過ぎる”その売り方を変えることこそ重要ではないかと考えます。