自分も昨日言及したオリンピックの諸問題についてですが、その問題に関連して、マーヴィン・ゲイの遺族による「Blurred Lines」訴訟問題についてのエントリーが参照されているようです。しかしながら、自分が意図しない形で引用され、そこから快いとは思えない言い争いが起きていることに心を痛めています。なのであらためて、訴訟問題を踏まえた私見を記載します。
自分の考えとして、芸術性のある創作物で、他の何にも(誰にも)全く似ていないものなど存在しない、とは思っています。「Blurred Lines」訴訟問題の際に、”ならばロックはどうなる。すべての人がリトル・リチャードに著作権料を払わないといけなくなるのでは?”という声が聞こえてきたのですが、極端に言えばそういうことかもしれません。あまりにも明らかな模倣ならば問題ですが、創作者が何かしら、誰かしらの影響を受けて生きてきた以上は、何かしらが創作の背景にあるだろうとは思います。
その上で、自分が「Blurred Lines」訴訟問題から実感したことは、【訴える側に何かしらの打算がある場合、彼らこそ芸術を大事にしているとは言い難い】ということでしょうか。マーヴィン・ゲイの遺族側は、ロビン・シックが「Blurred Lines」以前にもマーヴィン・ゲイに似た曲を出していたのに(そしてそれがシングル化されていたのに)、ヒットしなかったためかそのタイミングでは訴えていないということ、そして遺族側が今回莫大な金額を勝ち取ったということを踏まえると、裁判は”偉大な父の音楽を守る”ことよりも”「Blurred Lines」の著作権収入を手に入れたい”という金銭的打算が見て取れるようでした。そういう打算が背景にあることが、今後も同種の裁判等が増える可能性やその懸念を考慮して創作性が削がれかねないとの理由でクリエイティヴィティの後退につながりかねないというファレル・ウィリアムスの発言につながったのではないか、と。ゆえに、遺族側の打算を憂い、『マーヴィン・ゲイの遺族側はあらゆるクリエイティビティを壊しかねない悪例を築いたかもしれない』というエントリー名にした次第です。ちなみにブログエントリーを引用された方は、この訴訟を踏まえて”アメリカの音楽はほぼ死んだ”と書かれていましたが、「Blurred Lines」については危機かもしれないけれど音楽が死んだとは全く思っていません。ならば、たとえばR&B/ヒップホップにおいてサンプリング等文化が発展するはずもないでしょう。危機を及ぼすのが打算であることが問題だとは思っていますが。
”打算”は、今回のオリンピックにおけるネットの糾弾姿勢にも垣間見られるようでした。誤ったことをした人間になら私生活に危害を及ぼそうが構わない、という姿勢は狂った正義感であり、自らの穿った言動に正当性を与えんとする姿勢は虐める側のやり方と何ら変わらないでしょう。その、糾弾する中の誰かひとりでも、オリンピック運営側に対し、誠心誠意、綺麗な言葉で、こうしたほうが好いという前向きな提言を行ったのでしょうか。それが見えない以上、彼らはゲーム感覚で楽しんでいるにすぎないと言っても過言ではなく、その姿勢は【訴える側に何かしらの打算がある場合、彼らは芸術(この場合はオリンピックであり、芸術とは若干異なりますが)を大事にしているとは言い難い】と考えます。そしてそもそもこの件については、ネットの人々は当事者とは言えず、直接訴える立場でもないと思うのですが。
ネットの人々の穿った言葉からは心を通わそうという気概が見られず、その言葉に触れるだけで疲れてしまいました。こういったことは昨日のエントリーでも言及してはいるのですが、自分のエントリーを(自分が意図しない形で)引用した方と、そこに疑問を呈した方が、こちらも一切心を通わせようとする姿勢がなかったことにも悲しみを覚えます。物理的に会う、面と向き合うことがないから出来ることなのかもしれませんが、さすがにこういったことが多過ぎる気がしてなりません。穿った言葉を平然と放つ人については、万が一言い分そのものが正しかったとしても、その人間性は疑わざるを得ません。