イマオト - 今の音楽を追うブログ -

旧ブログ名:face it。音楽チャートアナライザーとして、ビルボードジャパンや米ビルボードのソングチャートなどを紹介します。

”33歳までに音楽的嗜好が固まる”という研究結果から思ったこと

下記の記事が、音楽好きな方々の間で話題になっています。

人は33歳までに音楽的嗜好が固まり、新しい音楽への出会いを止める傾向がある、という研究結果が話題に - amass (5月14日付)

記事に対して、たとえば音楽プロデューサーの亀田誠治さんが憤慨ツイートするなどといった否定的な反応が多く見られたのです。が、ともすれば否定派の方々は人一倍音楽好きな方やそれを生業とする人に多いのかもしれません。自分も好きではありますが、これは事実だと思わされました。

 

 

以前知り合いから聞いた話ですが、ある歌手のライブがあり、チケットが余ったので友人を招待したそうです。その年発売されたベスト盤が大ヒットし、それを踏まえてのライブ。ベスト盤に収録された楽曲は全て、その歌手のセールス面での第一期黄金時代を支えた有名プロデューサーとの蜜月が終了した後のもの。招待された友人は逆に蜜月期しか知らず、またベスト盤をチェックしない状態でライブに臨み、ライブ後、「曲を知らないので楽しめなかった。蜜月期のほうがよかった」と言ったそうです。チケット代請求してやろうか…その知り合いは内心憤慨した、とのことでした。

その歌手については、ミリオンセラーを獲得したそのベスト盤が発売されるまでは、セールスが蜜月期に追いついていないというあくまで量的な理由だけで、世間ではやたら"終わった"、"消えた"の文言が溢れていたように思います。その歌手は自らやりたいことをやり通した結果、自らブレイクを掴みとったわけで、第二のブレイク以降は(はっきり言って)戯言を吐く人は極端に減ったように思います。

戯言を払拭させたのは、歌手本人の不断の努力の賜物であることは間違いありません。他方、ベスト盤に至る下地をきちんと見ようとせずに戯言を吐く人が、その知り合いの友人も含めてあまりに多いことに、音の探求をしようとしない姿勢を見る思いでした。

 

 

新しい音楽に触れる環境には、能動的か受動的かの二種類があると考えています。文字通り、前者は自ずと触れようとする姿勢であり、たとえばCDや配信で買う、新曲をYouTubeで探す行為。後者はふと耳にするなどによって自然と刷り込まれることであり、新曲がかかるラジオ(局、もしくは番組)を流している行為と言えるでしょう(他方、YouTube等での"オススメ"経由で曲を知ることはある種受動的だったり、ラジオ局を聴く(ためにスイッチを付ける)行為自体は能動的だったりはするのですが)。

 

YouTubeは別として、購入やレンタルといった能動的行為には金銭がかかります。記事で指摘されている(上限)33歳という年齢は、世間的には結婚している人が過半数であり子供がいる人も多く、金銭を娯楽に回しにくくなるわけで、その意味で購入やレンタルという能動的行為は減るように思います。それは半ば自然なことと言っていいでしょうし、やむなしだと思います。

 

しかし問題は、先の聞いた話に登場した、友人の『チェックしない状態でライブに臨み、ライブ後、「曲を知らないので楽しめなかった。蜜月期のほうがよかった」』という姿勢にあります。チェックしないで観たらいい意味でイメージが覆されて感動する、もしくはチェックした上で観てそれでも(比較した上で)前のほうが...と言うならばまだ許せます。極端な表現を敢えて用いますが、チェックしないという友人の、”イメージを凝り固めたままにしておく思考停止を、それが正しかったと正当化する行為”は極めて無責任な行動ではないかと。ちなみに、知り合いとその友人がライブを観に行ったのは30代前半とのことで、まさしく記事にある通り『新たな音楽を探すのを止めるようになり、音楽的嗜好が固まる傾向がある』ことをその友人が体現していたと思いますし、その体現の結果、思考停止と正当化という無責任さが如実に登場するのだと。この、年齢と共に登場する都合のいい無責任さ...これっていわゆる”老害”ですよね。

 

先例にとどまらず、自分の周囲に当てはめてみると、30代以降の方々の"今の音楽が分からない"発言がなんと多いことか、と気付かされます。無論、自分も全て知っているわけではないですし、たしかにチャートは前より熱心にはチェックしなくなりましたが、たとえば新たな歌手が登場した場合、自分の場合は分からないのは探求が不十分な自分の責任だと思っていて、決して責任転嫁するつもりはありません。しかし、”今の音楽が..."とか、”最近の歌手はどれも一緒”などという人の多くは、探求をきちんとしようとしなかったり、いや放棄すらしている自身の行動が、世間では一般的でありマジョリティだ、ゆえに正しいとして自らの探求不足をすり替えているように思うのです。その論理は、たとえば"今の政治は誰がやってもだめ"とおよそ半数が投票放棄した国政選挙に似ています。たしかにその側面はあるかもしれませんが、投票放棄者にはそれを言う資格は無いでしょうし、あってはならないと思うのです。しかしそれがマジョリティになってしまっているから厄介なんですよね。ゆえに、マジョリティと化した”老害”こそが音楽的嗜好を固めさせる最大のネックだと考えます。

 

 

どうすれば研究結果を覆す環境にすることが出来るでしょう。無責任なマジョリティに面と向かってそれを指摘することはそのマジョリティを怒らせかねず、そんな直接的な行為を採ることはリスクが高すぎます。ならば、まずは自分自身が音楽を掘り続けることを誓い、それを担当しているラジオ番組やこのブログを通してフィードバックしていこうというのが今の段階での自分の結論です。それによってひとりでも多くの人が自然と感化され、能動的に動くようになったならば少しずつ好転するかもと考えています。社会の変革に対しあまりに小さなことかもしれませんが、それでも、一人ひとりが持っている”責任”にどう気付くかが大事だと考えます。

そして同時に、仮に自分自身が知らない音楽が出てきたとして、それを知らない状態で否定するのは絶対してはなりません。いや、否定すること自体は自由ですが(好き嫌いは誰にでもあることです)、ならばマイナスの言葉を公共の場で公言しないようにするのも必要なことですね。SNSだって不特定多数の方が見る場である以上は”公共の場”です。偏見を持たないこと、柔軟に吸収出来るようにすることを心掛けることは大前提ですが、物事を否定することだけに躍起になるのは人間性魅力を自ずと捨てているかのようで非常に勿体無いと思うのです。自分の好きなものを闇雲に否定され非難されたらほとんどの人は傷ついたり怒るはずで、その感覚を常に自分の中に持ち客観的な視点を持ち合わせていれば、”終わった”などのマイナスの言葉を発することは減るでしょう。マイナスの言葉を発する人が大半を占める社会は息苦しいですし、そもそも格好悪いですよね。

 

いやいや、責任論だなんて堅い...そんな難しいことを考えるより、純粋に好いと思ったものを共有して楽しさを伝播させるほうが、マイナスよりプラスイメージを共有し合ったほうがより好くなるんじゃないか、と思うならばそれも勿論有りでしょう。そのプラスイメージの訴求の点ではSNSでの発信が効率よいでしょう。ただ、如何せんプラスよりマイナス、ポジティブよりネガティブの言葉のほうが伝播しやすく、そして人の悪口や失敗が不謹慎でも楽しいと思う人が多い現状では難しいかもしれませんが。とはいえやらないことには、もっと”老害”化が進んでいくばかりではないかと思っています。